「全盲医師として、どこまでできるか?」
1.序
私はかつて大学医学部に在学中に、ある疾患で視覚障害者となった中途視覚障害者である。
23歳の時であり、若干の視力が残っていたものの、弱視という状態で、果たして大学は卒業できるのか、国家試験を受験できるのか、さらにその後の仕事はどうか、等々、数多くの疑問と不安を抱えながらも、何とか授業と実習をこなして、卒業することはできた。
卒業後、さらに視力が低下して数年後には全盲の状態になるのだが、医学ではない一般の職場に就職して、社会人としての生活を送った。また1995年(40歳)には、鍼灸マッサージ(以下、「あはき」と略す)の資格を盲学校で取得し、その後、鍼灸院を開業するなど、この仕事に従事してきた。
2.転機
「欠格条項」という言葉をご存知だろうか?。世の中に国家試験は数多くあり、その受験資格や免許によってできる仕事など、それぞれの法律によって規定されている。
その法律の中で、障害などを理由に受験を制限したり免許を与えないとする条文があり、それが「欠格条項」である。
こうした欠格条項について、90年代から見直しの動きはあった。90年代末には具体的な法改正の動きが始まり、60以上の法制度に欠格条項があることが明らかにされた。
2001年の国会において医師法も含め各法律の欠格条項が改正された。医師法では、それまで「目が見えない者」「耳が聞こえない者」などが「絶対的欠格」として門前払いの状態だったのが、障害の程度や職務の困難度によって試験や免許交付を判断する「相対的欠格」へと緩和されたのである。
さらに検討が進み、厚労省からは、2002年夏に障害者が医師国家試験を受験する際に配慮をするという「特例受験」を含めた試験要項が発表された。これで正式に視覚障害者も受験できるようになったのである。
だが、私の心はなかなか動かなかった。それまで障害者団体に属して色々な運動にかかわってきたから、この欠格条項の見直しの動きはよく知っていた。しかし当時の私にとっては、ずいぶん遠い所で動いているという感覚しかなかった。法制度が改正されてからも、同じだった。なぜ私の気持はそんなにも頑なだったのだろうか。
第1に、勉強をしたくなかったからだ。受験をあきらめてから20年近く勉学から遠ざかっていた。それを再開するには年を取り過ぎていた。
第2に、自分で点字や音訳の教材を作らなければならない。その労力を考えると、気が遠くなりそうだった。
そして第3に、それまでの私自身の気持が、医学や医師というものに対して意識的に避けてきた、あるいは逃げてきたからだろうと思う。かつて医師への道を断念した時から、医学や医師に対して自然な態度を取ることができなくなった。それらに対して反発し、あるいは忘れることで、あきらめることができた。そうした状態を長期間続けた後、その気持を急に変えろと言われてもできない相談だ。こうした心の整理が最も難しかったかもしれない。
硬く冷えきった私の心は、それでも時間をかけて、少しずつではあるが解けて行った。仕事としていた、あはき業がそれほどうまく行っていなかったことも理由の一つになるだろう。最も大きかったのは、友人からの励ましやアドバイスだ。運動をともにしてきた友人達が熱く私に語ってくれた。議論もした。その中で、ようやく勉強を何とかして始めようかと思い始めたのである。
3.国家試験の勉強の壁
勉強を再開しようと心に決めてから最初の受験まで、半年ほどしか時間がなかった。2002年の10月の頃だ。
友人と一緒に、どんな参考書があるか、久しぶりに専門店を訪れる。基本的な内容を扱った問題集を3冊だけ選んで、今回はこれだけをやろうと決めた。対面朗読で読むしかないと悟った。
その頃の私の環境として、週に1回ないし2回の朗読に時間を割くことが精一杯だった。朗読は遅々としてはかどらない。医学書を読める朗読者(ないし朗読ボランティア)は少ない。少ない彼ら彼女達も、実際に読んでもらうと、読めない用語が多い。イラストや画像(レントゲン写真、CT、MRIなど検査の写真)で止まってしまう。当たり前の話だ。
医学に慣れていると紹介された朗読者でも十分に対応できる人は少なかった。だから、私の知っていること、憶えていることは彼女達に伝えようと心がけた。ただし画像に関する私の知識は乏しい。1枚の写真を前に20分も30分もかけて、彼女達とやりとりしながら、時には互に興奮して一触即発ということもあった。
4.やがて臨床研修をスタート
こうして欠格条項が緩和されてから3度目の受験、2005年の3月に国家試験をクリアした。さらに半年、同年9月末に医師免許を取得した。
そして、私の最大の課題である臨床研修をどうするか、どこで受けるかである。
結局は同窓生のつながりで、大学病院の精神科の医局で研修を受けることになった。2005年12月からのスタートである。
またこれとは別に、2006年1月から県内の関連病院精神科にパートで働き始めた。
時期を前後して二つの別な場所で仕事をしているわけで、盲人として雇用される際の条件整備を両者で並行して進めて行かねばならず、物心両面において苦労が要る。しかも私もすでに51歳をかぞえ、若い頃のようなパワーはとうに無い。頭髪もずいぶん少なくなった。それでも、残った気力と体力をふりしぼって、病院に出かける。
5.臨床において
大学病院は敷地が広い。大学病院にお願いしたのは、介助者である。移動と情報が一般の職場でも中心的な課題であるが、病院での私の活動においても、事情は変わらない。
精神科医局は、介助者の準備をしてくれた。彼女は医療従事者ではなかった。主に移動の面をサポートしてもらう。問題は診療の現場での書類の読み書きだ。患者さんの個人情報の保護の面から、彼女が介入できるエリアは狭い。
私の情報面でのサポートをしてくれるとしたら、ナースやワーカーも含めた医療従事者ということになるが、現行の医局内の体制では困難とのこと。一部の例外はあるが、病院のシステムの中で私がその中に組み込まれていないのが実状であり、その解決策を大学の先生方と模索しているが、決め手はまだない。
これに比べると、民間病院では、対応が柔軟だ。私は主に入院病棟を担当しているが、病棟のナースがカルテを読んでくれたり、書類の作成時も細かくサポートしてもらっている。たぶん、ここでの問題は、他の先生方と同様の範囲まで自分の仕事を拡げることができるか、ということだろう。外来の忙しい流れの中で私が書類の処理も含めて可能かどうか、また外部から依頼される診断書などの作成がどこまで可能か。
6.現在の問題点
2006年6月下旬から、現在の所属での勤務日数が増え、常勤医となった。あわせて大学病院に行く日数は減り、今は週に1回行っているのみである。この体制の中で、私が抱えている問題を整理すると、次のようになるだろうか。
(1)患者や家族が私の視覚障害を理解できるかどうか。病棟の場合は、私に関する情報が十分に 行き渡る。時間をかけながら、お互いに理解する機会は多い。外来の場合は、共有できる時間・空間はそれよりは少ない。その中で、どの程度、理解してもらえるのか。
(2)カルテも含めて、書類の処理がどれだけスピーディにできるか。外来、特に新患を扱う場合に、書類の処理が間に合うかどうか。また、診断書や意見書など、現在の法制度のもとで依頼される書類の量は急速に増えている。PCで解決できないことが多く、それらを一定の速度で処理するにはどうすればよいか。
(3)学習環境を整備できるかどうか。研修にしても仕事にしても、日常的な勉強を確保できるかどうかは、とても重要な問題である。現在、私が行なっているのは、ボランティアの活用である。
私が勉強する方法としては、点字または朗読の形になっているもの、またPCをスクリーン・リーダーで操作可能なので、必要な図書や雑誌をテキスト・ファイルの形に入力してもらっており、それらを利用しながら勉強をしている。しかし依頼できるボランティア団体・個人はまだまだ限られており、この体制を広げることができるかどうか。
7.臨床研修制度の問題点
2004年度の医師国試合格者から始められた新しい臨床研修制度であるが、この制度が私に適用できるかどうか、厚労省においても検討された。結論としては、7科目をローテーションしなければならない制度はこのままでは私には対応できないこと、従って私の研修方法としては、従来の制度に準ずるものを例外的に適用するということである。
つまり、7科目ではなく、1科目の研修を行なうことであるが、この代わりに、私には病院管理者にはなれないというハンディが与えられることになった。つまり、私は開業することができないのである。私1人ならともかく、今後、視覚障害・聴覚障害の新しい医師が出てくるであろう。
その時の臨床研修をどうするか。私の個人的な問題にとどまっていないのである。